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なんだか、急に疲れた。
暗い路面がヘッドライトの白い光に照らし出され、その上に描かれた白線は車体の下へと吸い込まれていく。
男がアパートの自室へと戻ったのは午後7時のことだ。
ベッドルームまで行く気力もなく、鍵も閉めずに居間の白いソファーに倒れ込む。
――それは、ある秋の日。
troia 〜 +day 〜
5時10分に会社を出た。これといった予定はない。たまには街をぶらつくのもいいかもしれない。
夕日に照らし出されるビルの群れ。
その間の道を歩く人、人、人。
みんなが予定に追われ、忙しく歩き回っている。
その中に居て、目的も無くぶらつく事はなかなか魅力的であった。
◇
日が落ち、大半の店が照明をつける。
ビルの壁に埋め込まれた巨大なディスプレイや自己主張の強い広告を見ていると、その中に知っている文字列を見つけた。
Troia
確かポストに広告が入っていた。飲食関係の店だと思うが。
一瞬入ろうかと考え、辞めた。
歩くことを再開し、都市の中心部に近づいていく。
『ちょっと』
後ろから肩を叩かれた。背筋がゾッとする。
「何ですか?」
振り返ると、そこには黒いサングラスをつけた黒人の男が立っていた。
「一緒に来て貰えませんか」
低い声だ。
「ええ、いいですよ」
男の問にできる限り明るく答える。
◇
男に連れられ、入ったの店はTroiaだった。
バーである。
薄暗い店内には紺に細い縦縞の入ったスーツを着ている太った男が一人、それを囲むように黒いスーツを着た男が数人立っていた。
「なんですか」
「いやぁ、君の話は仲間から何回も聞いてね。仕事を頼もうと思うんだ」
「いいですよ、まず用件を聞きましょう」
「ああ。知ってるかね、エイリファスという女だ」
そうして、男との交渉は始まった。
「エイリファス……さぁ、知りません」
まったく聞いたことのない名前だ。
「エイリファス・クロイツ、君の同業者だ。元陸軍少尉」
同業者というのはつまり。
「殺し屋?」
「ああ、そうだ」
そう言って、男は懐から一枚の写真と紙切れを取りだし、テーブルの中央に置いた。
「なんでまた?」
その写真と紙切れを取る。写真には軍服を着た女性が映っていた。
「理由など関係ないだろう? 君は金を積めば何でもやる、というから雇おうと思ったんだ」
「……わかりました。彼女を殺ればいいのですね?」
「そうだ。住所はその紙に書いてある」
「期限は?」
「今日の5時30分から96時間後、ここに」
移動時間を考えると今から90時間ほどで終わらせなければいけない。
「成功報酬は?」
「180,000$」
「手付け金は」
「2,000$」
横に立っている男が机の上に封筒を置く。
「わかりました」
それを受け取り、席を立ち出口に向かって歩き出す。まず車の準備をしなければ。
「待て」
「なんですか」
出口近くで止まる。
「この子を連れて行け」
そう言うと、男は、スーツの群れに隠れていた少女の背中を押した。
見た感じ10歳くらい……か。
白色の長袖ハイネックのシャツに、デニム地のスカートを履いている。
長い黒髪と、おなじように黒い瞳。
表情のない顔。
「この子ですか?」
とても正気とは思えない。
「ああ、育成中の殺し屋候補だ。一度現場を見してやってくれ」
「足手纏いです」
「成功報酬に50,000$足そう」
「……無事は保証しませんよ?」
「そんな事、百も承知だ」
男はそう言った後、少女の背中を再び押す。
それに対し反抗することもなく、少女はこっちに来た。
時計の針は5時34分を示す。
タイムリミットまで、実質89時間と56分。
◇
店を出た後、家に直行した。
勿論仕事のツールを取ってくる為である。
その後はフリーウェイに乗り、ここまで約2時間。
日が落ちて、周りも暗くなってきた。
男から預かった少女は、後部座席で静かに座っている。
「お前、名前何って言う?」
「……へ?」
バックミラーを調節して見ると、少女の驚いた顔が映った。
「だから、名前。言えないのか?」
「……わからない」
「はぁ?」
「……No.11(ナンバー11)って呼ばれてました。けど、名前じゃないと思う」
「……そうだな。それは名前じゃない」
それは、ただの管理番号。
「えっと、だから自分の名前は……わかりません」
「そうか。だがこのままでは勝手が悪い。こっちで名前を付けてもいいか?」
「……いいですよ。別に」
そうだな……
「エレンってのはどうだ?」
「それが私の名前……ですか?」
「嫌なら他のを考えるけど」
「いいです。エレン、ですか。気に入りました」
「そうか。なら良かった」
「あなたの事は、なんて呼べばいいのでしょう?」
「え? ああ、そうか」
名前、か。
『死神の使い』と呼ばれていた。
「それで、名前は?」
「そうだな……無い」
「え?」
「あったけど、忘れた」
「自分の名前って、忘れる物ですか?」
「偽名ばっかり使ってるとね、どれが本物だかわからなくなるんだよ」
「それじゃ、私が付けてもいいですか?」
「ん? まぁ、そうだな。好きなように」
「それじゃ……ジャーヴィス、なんてどうですか?」
「長いな」
「ヴィスって呼びます」
「……ああ、それでいい」
なかなかさっぱりしていて良いと、素直にそう思った。
◇
夜9時14分――残り85時間16分
紙に書かれた場所に着いた。
人口約5,000人の村である。
村は東西に走る一本の大通りと、そこから伸びる小道で分けられている。
さて、女――エイリファス――の家は、村の東の入り口からみて右側五本目の道を曲がって突き当たりにある。
とりあえず大通りの脇に車を停め、座席を傾けて仮眠の準備を始める。
「仕事は何時(いつ)からです?」
と、後ろからエレンが話しかけてくる。
「ん? ……まだ早い」
「ここで寝るのですか?」
「そうだ……あー、冷えそうだな」
そう言って、車を降りる。トランクから毛布を二枚取り出し、再び運転席に。
席に座ってから、後ろのエレンに一枚渡した。
「これ使い」
「……ありがとうございます」
「じゃ、おやすみ」
瞼を閉じると、すぐに眠りへと吸い込まれた。
◇
明朝4時42分――残り76時間48分
エレンを起こさないよう、こっそりと車から降りる。
今回は現場の下見だけ済まして帰る予定。なのだが念のためSW M39と消音器の入ったアタッシュケースを持ち出している。
車から十数メートル離れた所でふと思う。
少女、エレンに現場を教えるのも仕事だったではないか。
その場で深いため息を吐き、車へと戻る。
後部座席の扉を開けると平和な寝顔の少女が一人、毛布にくるまり丸くなっていた。
「お〜い。起きろー、エレン。仕事だぞー」
肩を揺する。
「うん……えっと、おはようヴィス」
ゆっくりと目を開ける。
「おはよう。仕事だよ、さぁ起きて」
「わかった」
そう言うとゆっくりと体を起こし、車を降りる。
「今からは下見に行くだけだからな」
車のドアを閉めながら言う。
「わかりました」
シャツのシワを伸ばしながら答える。
「よし、村民に見られてもソワソワしないにように」
「ハイ」
「それじゃ行こう」
エイリファスの家へと歩き出す。
◇
大通りを曲がると、すぐにその白い家が見えた。
「アレですね」
「だな」
門から玄関までは見た感じ10メートル程。玄関のドアはダブルロック。
庭の周りの柵は腰ほどの高さで、簡単に飛び越えられる。
二階建て。中の様子はわからない。
自動車は1台のみでハッチバック型。
周りに狙撃できそうなポイントはない。
「狙撃は無理みたいですね」
エレンが周りを見ながら言う。
「だな。隠れて狙えそうな場所が無い」
「突撃します?」
「いや、騒ぎになるし」
「殺した時点で騒ぎになります」
「……それもそうだな。じゃ、今から突撃するか?」
持っていたアタッシュケースを下ろし、ふたつのロックを跳ね上げる。
中の銃に消音器を取り付け戦闘準備。
「はい」
そう言ってスカートの下から銃を取り出すエレン。
(……どこに隠してんだよ)
「何か言いましたか?」
「いや、何も。それよりその銃」
「これですか」
銃を持った右手を小さく振る。
「そう、それ。大きすぎるんじゃないか?」
手に持っているのはスタームルガーP85。
「そうでも……ないですよ」
「いや、重いだろ」
「……少し」
「だろうな」
「でも、十分に扱えます」
「それならいい。……じゃ、始めるか」
白く塗られた柵を飛び越え庭に入る。
それに続いてエレンも柵をひょいと飛び越えた。
姿勢を低くし、庭を横切って玄関へ。
「どうしますか?」
後ろから、エレンの声。
「そうだな。まず中に入らないと」
「この扉は……壊しますか?」
「少しだけな」
扉は木製だった。
中央に大きなガラスがはめ込まれている。
その大きなガラスに銃口を近づけた。
「下がって」
エレンにそう言いつつ、自分もドアから数歩離れる。
そして、引き金を引いた。
……黙音
消音器の効果で、音はかなり減耗されている。が、それでも完全に消す事はできず、完全に消そうとする努力もしないのだからこのレベルで諦めるほかない。
ガラスの割れた所から慎重に手を差し込み、サムターンを回す。
「……よし、開いた」
「強引ですね」
「いや、まぁ突撃ですから」
扉を開け中に入る。
入った正面は壁、右に食堂、左に居間が見える。玄関兼廊下らしい。
「エレンは左の居間で待機。一階を調べてから二階に行く」
「……わかりました」
エレンが居間に入って行くのを見て、こちらも動き出す。
◇
右には、庭に面した大きなガラス窓。左には4人掛けのテーブル。
テーブルは入ってきた側の壁に着けられ、その壁側に液晶テレビとラップトップ型のパソコンが置かれていた。
それ以外には何も載っていない。
オープン型対面式のキッチンには、あるべき物が整然と並べられ殺風景。
人はいない。
テーブルを挟んで反対側の扉から出る。
そこには右側、つまり玄関と反対側に階段があり、奥に廊下が続いている。
階段を無視して廊下を進もうとした時。
背筋を走る、少しでも触れたら切れてしまう蜘蛛の糸のようなそれは
――殺気。
姿勢を低くしながらの反転、同時に片膝を立て銃を構える。
階段の踊り場に立つ女と、目があった。
troia B part
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