吾輩は傘である3

「明日なんだけどさ、ちょっと傘貸してくんない?」
 部屋の奥の方からリョウコの声が聞こえてきた。消灯時刻はもう過ぎている。豆電球の光は、私のいる部屋の入り口までは届かない。
「どうして?」
 ミユキが眠そうな声で応える。彼女は二段ベットの下段でより私に近いところで喋っている。リョウコよりはっきり声が聞こえてもいいのに、そんなことは全然無かった。
「ほら、創立記念日で休みでしょ? 美術館でも行こうかなと思ってさ。でもミユキ、行けないでしょ?」
「……あー、そだね。私は部活、抜けれないかも」
「スキー部の人間にも声かけたんだけど、どうにも反応がわるくてさ。それで、お供に」
「私はいいけど……それって私に聞くことかなぁ」
「それはほら、よく学校で配られるプリントにも書いてあるじゃない。『保護者の署名』みたいな。……で、どうすよ?」
 最後の言葉は一段大きい声だったので、それが私に向けたものなのだと理解した。
 迷うことなく答える。
「行こう」
「よしきた。それじゃあ、明日ね」


 翌日、ミユキは朝早く学校へ出かけていった。例のコンピュータ部でシステムに不具合があったと言っていたが、それにしては楽しそうで、なんだかよく分からない。彼女はパズルのように感じているのかも知れない。
「美術館にはいつ行くんだ?」
 二段ベットの上段で動く気配を察知し、声をかける。
「んー、まず朝ごはん」
 そう言いながら、リョウコが二段ベッドの梯子を降りてくる。毎日半分寝ぼけたままで降りてくるのに、私の知る限り今まで一度も落ちたことが無い。動物的な直感だろうか。
「……どこで食べるんだ?」
 以前ミユキから、寮の食堂は八時十分までしか開いていないと聞いていた。
「どこって……ああ、そうか。もう閉まってる」
 どうやら食堂で食べるつもりだったらしい。
「じゃあ、今から着替えて出発しよう。美術館近くに喫茶店があったから、そこで朝ごはんだ。とりあえず顔洗ってくる」
 彼女はそう言うと、洗顔セットを片手に部屋を出て行く。
 部屋に一人残された私は、唐突に工場の倉庫にいた頃のことを思い出した。
 倉庫にいた爺さんは、いまもいるだろうか?
「おっすー、ただいま」
 戻ってきたリョウコは、すぐにクロゼットを開き私服に着替え始めた。
「そういえば、アンタって女の子の体とか見て興奮するの?」
 橙色のパジャマのボタンをはずしながら、リョウコはそんなことを聞いてくる。
「逆に聞き返すけど、人はなぜ異性の体をみて興奮するんだ?」
「……子孫を残そうとする本能、かな?」
「であるならば、私が興奮する理由は無いだろう」
 脱いだパジャマのズボンを、リョウコは部屋の隅に置かれた洗濯籠に投げ込んだ。
「なんだかイマイチ納得いかないな」
「それじゃ、私が人間に色情を抱くことがあるならどうするんだ?」
「面白そうだからから焦らしてあげる。アンタの前でポーズ決めてさ」
 スカートのチャックを上げる音が室内に響いた。
「……傘に性別は無いんだよね?」
「おそらく」
 実際のところ、ほかの傘と喋るような経験はほとんどして無いのでわからない。
「でもワタシはアンタのこと、男っぽいなって感じる」
「私もどちらか選べと言われたら男を選ぶ。もしかしたら、男だという考えの下で教育されたのかもしれない」
 クロゼットの閉まる音で、彼女が着替えを終えたことを認識する。
「それじゃ、行こうか」
 彼女の手が、私の柄をやさしく掴んだ。


 近くの駅から電車に乗り、二十分ほどでリョウコは電車を降りた。
 改札を出てしばらく歩いたところで、チェーンの喫茶店に入る。サンドウィッチとコーヒーを提供するらしいことが店のロゴから伺えた。
「美術館へはよく行くのか?」
 リョウコは店の奥の、四人がけの席へ座った。私はテーブルの縁と壁の直角に落ち着く。出勤時間には遅いからか、店内はがらんとしていた。
「前に何度か、前を通ったことがある」
「そんな気はした」
「この間まで文系分野になんて興味なかったのに、不思議なもんだよ」
 彼女がそう言ったところで、ワイシャツに黒いエプロンをした店員が注文を取りに来た。リョウコが慣れた調子でハムサンドのセットを頼むと、足早にカウンターの裏へと戻っていった。
「人の価値観なんて一瞬で変わるだろう」
「傘のくせに人の価値観を語るとは」
 彼女はそう言いながら、白い革鞄から小さなノートを取り出す。見慣れない、小さいサイズだ。
「予定帳?」
「おしいけど、違うね」
 予定帳に近いものとは何だろうかと私が考え倦ねていると、彼女はさらっと回答を口にした。
「私の目標帳さ」
「聞いたことがないなあ」
「聞いたことあるものより、聞いたこと無いものの方がよっぽど多いと思うね、私は」
「それで、予定帳とはどう違う?」
「人は、流されやすい。気を抜くとすぐ、楽な方へ面倒のない方へと道を選ぶ。でもそれじゃあ、目標は達成されないわけよ。ただ、やりたい、とか、したい、で終わっていつまでも実現できない」
「それは」
 私は言う。
「人によるだろう」
 しかしリョウコはそれを無視して話し続けた。
「ここで一つ話を紹介したいのだけれど、戦争で人を殺した兵士にその理由を聞いたとき、一番多い答えは何だと思う?」
「さあ、なんだろうな」
 私は僅かな情報から戦場を想像する。自分は兵士だと思う。ゆっくりと現実から自分を切り離して、その世界に集中する。深い森の中。私の部隊は補給線としている街道の警備任務に就いている。ある晩の歩哨中、戦線を越えてきた敵の斥候と戦闘状態に入る。すでに味方の兵士が一人、敵の銃撃によって命を落としている。私は彼を担ぎ、物陰に身を隠す。どうにかして生きて帰り、敵部隊の侵入を報告しなければいけない。そしてどうなったら、私は携行している突撃銃を敵に向ける? その引き金を引ける?
「……生き残るため、とか」
「それは確かに答えにあったが、一番では無い。一番多かったのは、『命令されたから』だ」
 私はリョウコの言葉に、非常な戦慄を感じた。
「このことからは様々なことがいえるだろうが、私はこう考えた。つまり『人間は命令に弱い』と。私がこの目標帳に書き込んだ事項は、すべて将来の私への命令なんだ。そして常に目を通すことで、しっかり脳に焼き付け、絶対に実行する」
「なるほど」
「これが、私が文武両道を突き通すことができる秘密なのでした、まる」
 リョウコはそう言って笑う。ちょうど、お盆に載ったハムサンドのセットが運ばれてきた。


 自動ドアを通過し、入り口正面にあるチケットカウンターへ向かう。高校生1枚分のチケットを買い、展示室へ進む。彼女は早足で、どんどんと展示室を進んでいく。ちらりと絵を見て、すぐ次の展示室へ向かい、またちらりと彫刻を見て、すぐ次へと向かう。
 私は心配になってリョウコに声をかけた。
「もっとゆっくり観たほうがいい気がするけど?」
「バイキングに行ったとして、誰もすべての料理をお腹一杯たべようなんて、そんな無茶はしないでしょ?」
 リョウコはそう言って、ペースを落とすことなくついに最後の展示室にたどり着いた。入り口には小さな文字で平均30分と書かれていたはずだ。
 リョウコは一番最後の絵の前で立ち止まると、禁止マークを無視して展示ルートを逆行し始めた。つまり彼女はすべての料理を味見してから気に入った料理を心ゆくまで楽しむつもりなのだ。
「おいしい料理があった?」
「べつに、何も食べて無いけど……っと、これが気になったんだよね」
 彼女は入り口から二つ目の展示室の絵の前で立ち止まった。置かれていた椅子に座り、じっと絵を見つめいていた。私も、その絵をみる。ロンドンの堤防を描いた小さな風景画だった。
「それで、この絵が気に入った?」
「惹かれたね」
 彼女はそれっきり口を閉ざして、じっと絵に集中していた。一時間ほどしてからだろうか、不意に彼女が声を発した。
「これってさ、なんだか燃えかすみたいだと思わない?」
 明け方の堤防を描いた風景画だった。霧がかっていて、近くの様子だけはわかるが、遠くはかすれてよくわからない。
 記憶というものを絵にしたらこんな風になるかもしれないが、燃えかすとはどうにもかけ離れている。
「……どうしてそう思ったのか教えて欲しいんだけれど」
「べつに絵に限った話じゃないんだけどさ……」
 リョウコはしばらく唸ってからこんなことを口にした。
「彫刻とか小説、映画や歌もそうだし、もしかしたら普段送ってるメールもそうかもしれないけど」
「うん」
 私はリョウコに先を促す。
「例えば絵に関していえば、私たちはそれを見て、ああ綺麗だなってすがすがしい気分になったり、壮大だなあって解放されたような気分になるでしょ。でもそれって、見てる方の勝手な解釈でしかない」
「そうだろうね」
「どんなに長いこと絵の世界に浸っていても、それが作者の感じていたことと考えていること、もっと言えば伝えようとしていることと一致することは無いんじゃないかな」
「それが、どうして燃えかすにつながるんだ?」
「それは……乙女のインスピレーションといいますか」
「……誰もが、誰かに何か伝えようとして描いているとは限らないじゃないか。頼まれたから描いたって人もいるだろうし、そういう風に描かれた絵だってたくさんあるはずだ」
 私がそう言うと、すかさず彼女はこう言い返してきた。
「そういう絵から、何かを感じ取るじゃない、私たちは」
 なんとなく、彼女の言いたいことがわかった気がした。三割くらいは理解できたと思う。
「ねえ、私たちはそんな燃えかすみたいなもから何かしら感じとってるんだよ。だからさ、この絵はナントカを表現しているとか、そんな解説、意味ないんじゃない? 好きに解釈すればいいんだよ、きっと」
「……結局それが言いたかったのか?」
「うん。だからさ、国語の授業とか馬鹿みたいだよね。この作品はコレコレをこのように表現しているとか、余計なお世話だよ」
「そう思いながらも受け入れるのが勉強なんじゃない?」


 リョウコは美術館に併設されているレストランで昼食を取り、夕方には寮の部屋に戻っていた。ミユキはまだ学校から戻っていないらしく、部屋には私とリョウコだけだった。普段はミユキの方が先に帰ってくるので、珍しい二人組ということになる。朝からそうだと言われるとその通りなのだが、普段の生活と比較して初めて気がつくこともある。
「そう言えばアンタさ、いつから喋れんの?」
 すっかり部屋着に着替えてベッドで雑誌を読んでいたリョウコは何を思ったのか、突然そんなことを言いだした。
「私か?」
「そう。他に誰が居るのよ?」
 傘の次は目覚まし時計が喋り出すかしら、なんて彼女は付け足す。そうなったらさぞ賑やかだろう。
「あまり良くは憶えてないが……倉庫にいる時だったかな」
 言葉にしながら少しずつ、遠い記憶を手繰り寄せる。
 私は梱包前の段階で、工場に併設された倉庫に入れられた。どういう訳かは知らないが、そこで半年程保管されていることになる。
 倉庫には年老いた男が一人、住み着くようにしていた。くたびれた作業着を着ていて、工場の従業員なのか倉庫に住み着いた浮浪者なのかはわからなかったが、とにかくその老人はいつも私たちに言葉をかけてきた。
「それで、言葉が喋れるようになったの?」
「さあ、どうかな。喋れるという事に気がついたのは、つい最近だった気がする。でも、言葉が理解できるようになったのはその頃だったはず」
「どんな話を聞いてたわけ?」
「……よく憶えてない」
 昼間の倉庫は、スモークガラス越しに降ってくる太陽の光で暖かかった。夜はコンクリートの床から、冷気が這い上がってきた。その感覚だけが蘇る。