吾輩は傘である

 吾輩は傘である。名前はまだ無い。というか、傘に名前を付ける人間がどれほどいるだろうか。先人に倣って吾輩なんて言ってみたが、普段の一人称だって私だ。
 私は市内のコンビニで売られていた。左右には同じ形の兄弟が並んでいる。それぞれ、自分を買うのがやさしい人であって欲しいという願い、あるいは乱暴に扱われてすぐに捨てられるのではないかという不安を胸にしているだろう。少なくとも私は、そんなことを考えていた。
 そうして店頭に数週間ほど並んでいると、柄に埃が積もってきた。汚いのはよろしくない。お客さんの手にとってもらえなければ、私は誰の役にも立てぬまま、この場で錆びるのを待つしかないのだ。買って貰うためには、常に美しくある必要がある。
 実はこの間に、何度か雨が降っている。その度に周りの兄弟が売れていき、それなのになぜだか私だけ、売れずに今もここに残っている。売れた分、そこには新しい兄弟が並び、かれらには新品の美しさがある。もちろん私にもそれはあるはずだが、この埃ではきっと霞んでしまうだろう。
 店員は私の埃に気がつかないのか、何日待っても掃除をしない。何度か話しかけることも考えたが、なかなかできない。話しかける、というのはこんなにも難しいことだったのだろうか。
 ある夜、私は男の店員が一人になった時を見計らって、話しかる決心をした。
「なあ、おい」
 胸に杉田と名札を付けた店員は、退屈そうにレジの前をモップがけしていた。
 一瞬、杉田の動きが止まる。しばらくきょろきょろと周囲を見回すが、私に気がつかないのか、しばらくしないうちに彼は掃除を再開した。少し声が小さかったかなと思い、今度は驚かせない程度に大きな声を出す。
「おーい」
 再び、杉田が止まる。聞こえてはいるらしい。
「……誰?」
 ぼそぼそとした、暗い印象の声だった。店の奥を向いて喋っているから、そう聞こえるのかも知れない。
「名前はまだ無い」
「猫?」
「傘だ」
 いままで見当違いな方向を見ながら喋っていた杉田が、ようやくこちらを見た。
「何これ? ふざけてるの?」
「違う」
「うわ、ホントに喋ってる」
 杉田は耳が良いのか、並んでいる同じ傘の中から私を見つけて手に取った。
「傘が喋ってはいけないのかね」
 私は少しだけ、怒ったような口ぶりをしてみた。もちろん、怒っているわけではない。
「傘は、普通喋らない」
「なら私は普通じゃない。それだけだろう」
「うわ、俺傘と喋ってる。疲れてんのかな」
「確かに顔色が悪いようにも見える。でも傘と喋ってるからと言って、それが疲れていることとは結びつかんよ」
「いや、普通は結びつく」
 杉田はそう言うと私を棚に戻し、関係者以外立ち入り禁止の扉の奥へ引っ込んでいった。
 水が流れる音がして、顔を濡らした杉田が現れる。
「顔を洗ってきたのか」
「そうだよ……って、また喋ってるし。いい加減黙れよ、お前」
 黙れ、という言葉にどきりとした。私はまだキツイ言葉に慣れていない。これから徐々に慣れていくのだろうか。それは自分の感覚が鈍っていくようで、なんとなく嫌だった。私は長々と話をせずに、目的を達成しようと決めた。
「ひとつ願いがある。それを聞いてくれれば黙ろう」
「なんだよ、願いって」
「埃を取ってくれ。上に乗っているだろう」
 私がそう言うと、杉田はレジの裏から叩きを持ってきた。それで手際よく埃を落としていく。
「これで満足か?」
 腰に手を当てて杉田が言った。
「ああ。それじゃ、これからは黙っていよう」
「そうしてくれ」
 杉田はそう言うと、カウンターの裏へ回った。時計の秒針の音だけが聞こえる。それくらい静かな夜だった。


「杉田」
「おいおい……」
 翌日、杉田が一人になった時に私が話しかけると、彼は情けない声を出した。
「勘弁してくれよ。お前、もう黙ってるって言ったじゃないか」
 後ろの、レジの方から声が聞こえてくる。当然だが杉田の姿は見えない。
「いいじゃないか。どうせ客も来ないし。暇だろう?」
 昨日の杉田を思い出しても、商品の入れ替えや店の掃除をたまにする以外はレジに座っているだけだった。ここからでは見えなかったが、きっと本でも読んでいたんだろう。
「確かに暇だけどよ。でもお前、傘相手に話をしてたら変な奴じゃねえか」
「心配ない。お前だけに私の声が聞こえている訳じゃないんだから」
「じゃあ今度、他のヤツがいるときに喋ってみろよ」
「私は構わんが。だがあまり他人を驚かせたくない」
「なんだ、俺だったら驚かせても良かったのかよ」
「いや、そういう事じゃない。ただ、ちゃんと仕事をして欲しかっただけだ」
「仕事?」
「つまり、商品の管理。埃被ってたら、なんとなく買いたくなくなるだろ」
「そうかな」
 杉田は首をかしげた。見たわけではないから正確には、たぶん首をかしげた、だ。
「そういう人もいるだろうさ」
「まあ、喋る傘がいるなら、そう言う人もいるかもな」
 一度会話が切れる。そこで私は、少し気になっていたことを過ぎたに調べて貰うことにした。
「……杉田、これから一週間の天気予報を知りたい」
「天気予報? どうして」
「いいじゃないか。いつが初仕事になるのか、気になるんだ」
「そうか。ならいまから調べよう」
「携帯で調べるのか?」
「そうだけど」
 ポケットから取り出した携帯で天気を調べる杉田を想像する。なんだか、変な気分だった。アルコールのきつい酒で喉の奥がひりひりする感じって、こうだろうか?
「……なあ、携帯は傘より便利か?」
 私がそう聞くと、その事がおかしかったのか杉田は吹き出した。
「なんだお前、そんなこと気にしてるのかよ」
「杉田だって、同じクラスのヤツが勉強できるのかとか、スポーツが得意なのかとか、気にするだろ?」
「そりゃ、お前。少し違っている」
「何が?」
「比べる枠だよ。お前は傘だし、携帯は携帯だ。携帯で雨は防げない」
「なるほど」
「天気は……おっと、台風が近づいているそうだ」
「そりゃまずいな」
「どうして。雨が降るぞ? お前の出番じゃないか」
 杉田は本気でそう思っているのか、はっきりとそう口にした。これだから消費社会は嫌になる。
「台風の日に買われたら、コンビニを出て広げられた次の瞬間に、突風で骨が折れるかもしれない。そんなのは嫌だ」
「……そら、確かに辛いな」
 杉田が理解してくれたことが、私は少しだけ嬉しかった。
「傘として生まれたからには、傘としてちゃんと仕事がしたい」
「じゃあ、どうする?」
「え?」
 その時私には、彼が何を言っているのか理解できなかった。
「お前、バックヤードの在庫と交代するか?」
 それは、私には少し難しい選択だった。
 もしここで、在庫と交代することを選べば、代わりになった傘が台風にやられてしまうことになるかも知れない。自分の仕事を、嫌だからと他人に押しつけることになる。それはただの我が儘だ。このまま店頭に残るべきだろうか。
 しかし、せっかくの杉田からの提案だった。これを逃せばそれこそ本当に、台風に骨を折られてしまうかもわからない。買われた次の朝にはゴミ箱、なんて寒気がする。もっと怖いのは、玄関の傘立ての奥で忘れられることだろうか。
 忘れられることは怖い。そうならない為に、今はバックヤードに行くという考えもある。だがやはり、誰かが私の代わりになるだけで、根本的な解決には至らない。
「……杉田、じゃんけんをしよう」
 結局、私の思いついた答えの出し方はそれだった。
「どういうこと?」
「どちらが勝っても大して変わりがない、ということ。私が勝ったらここに残る。で、杉田が勝ったら私はバックヤードへ。台風が去るまで、代わりの傘が店に並ぶ」
「その違いは大きいと思うけど。でも、わかった。いいよ。じゃんけんをしよう」
「最初はグー、じゃんけん」
 私はパーと言い、杉田はチョキと言う。つまり、杉田の勝ちだった。
「それじゃ。代わりの傘、持ってくるから」
 レジを離れた杉田が、立ち入り禁止のドアの向こうへ隠れる。
 きっと、これで良かったのだろう。自分でどうにも決められないことは、神様か、それに近いなにかに決めて貰うしかない。今回はそれがじゃんけんだった、ということ。神様もじゃんけんも、気まぐれという点では同じだ。
 杉田が、代わりの傘を片手にこちらへやってきた。
 もう片方の杉田の手が、私の柄を掴んだ。ごつごつした、けれど優しい感じのする手だった。


 私が店頭に戻ったのは二日後の朝だった。バックヤードではテレビが付いていて、台風は日本海海上で熱帯低気圧に変わったらしい。今回の台風の被害を地域ごとに説明した後で、今日は午後から夕立がくるとも言っていて、私にとってはむしろこちらの方がメインだった。
 もしかすると、今日私は買われるかも知れない。そう思うだけで心がウキウキした。ここから離れられることが嬉しいし、はやく傘として役に立ちたい。でも杉田と離れるのは少し寂しい気もする。
 昼までは日も出ていて、このまま雨が降らないのではと少し不安になったが、天気予報は夕立と言っていた。きっともう少ししたら突然雨が降ってくるだろう。
 その予想は正しく、時計が四時を回った頃から急に外が暗くなった。夕立前の、不気味な黄色い空だ。
 それからすぐに叩きつけるような強い雨が降り出す。店の前の駐車場には水たまりがいくつもでき、アスファルトにぶつかった雨粒が高く跳ねる。一本離れた通りのビルは、もう輪郭しか認められない。
 その時、店内にずぶ濡れの男が入ってくる。杉田だった。レジの前で一度立ち止まると、私にだけ聞こえるように「お前、売れるんじゃないかなと思って」と言う。
 私は答えない。杉田はそのまま、店の奥へと入っていった。
 つまり、私が売れていくのを見送りに来た、ということだろうか。それは嬉しいような、恥ずかしいような。すこし気持ちが悪いようでもあり、なんだか複雑な気持ちだった。こんな気持ちがあるんだな、と思う。悪い気はしない。
 しばらくして、頭を拭いて制服を着た杉田が店の方に出てきた。
「あれ、杉田さんじゃないですか。誰か、休みっすか?」
 商品の数を調べていた男が杉田に話しかける。
「いや、少し気になることがあって出てきた」
「はあ。それじゃ、とりあえずレジお願いします」
 杉田がレジにはいると、ちょうど近くの学校の女子生徒が二人、逃げるように店内へ入ってくる。二人ともバケツの水を頭からかぶったようだ。片方は賑やかそうなショートヘア。もう一方の女の子はロングヘアで、なんとなく図書室で本を読んでいる姿を想像した。
「あー、もうひっどいなあ。急に降り出すんだから……」
 そう言ったのはショートヘアの方だった。
「痛かったね。まだ腕がヒリヒリする……」
「ホント、滝のような雨ってアレのことだね」
「すぐに止むかな?」
「あんまり長くは降らないっしょ、夕立だし。どうせ十分もしたら止むって」
 ショートヘアの子はそう言うと雑誌売り場の方へ歩いていった。ロングヘアの子もそれについていく。漫画でも読みながら雨が止むまで時間を潰そうという魂胆だろう。読むのは女性向けのファッション誌かも知れないが、ショートヘアの子は少年漫画の方が似合う。
 私の予想というか、予感したとおり、ショートの女の子は週刊の少年雑誌を手にする。
 それから時計の長針が半周ほどした。雨は弱まったが、相変わらず降り続いていた。雨が止むのが早いか、濡れる覚悟を決めるのが早いか。根比べみたいだ。
 店内には例の二人組以外の客はいなかった。途中で二人の客が入ってきたが、既にいない。さっき出て行った一人は、私の隣の傘を買っていった。
「ねえリョウちゃん、傘買っちゃおうか」
 その様子を見ていたのか、ロングヘアの子がそう言った。
「でも、お金勿体なくない?」
 リョウと呼ばれた少女が漫画雑誌から顔を上げた。
「大丈夫だよ。私は先月のお小遣い残ってるし」
「そりゃ、ミユキは大丈夫かも知れないけど、私お金無い」
「じゃあ、傘は私が買う。それで一緒に帰ろ」
 ロングヘアの子はレジの近くへ来ると迷わずに私を掴み、レジのカウンターに置いた。杉田とは違う、指の細い華奢な手だった。
 杉田が私の胴体を掴み、値札をレジで読み込む。