吾輩は傘である2

「ただいまー」
 寮の部屋にミユキが学校から帰ってきたのは、いつもどおりの夕方、日が暮れるころだった。部屋に斜陽が差し込み、白の壁紙がまるで染められているかのように鮮やかなオレンジを発色している。
「お帰りなさい」
 私は玄関脇の靴箱に立てかけられていた。ミユキの部屋に来たのはもう一ヶ月の前の雨の日だ。時々、昔いたコンビニの店員を思い出したりする。
「ねー、私がいない間に部屋の掃除とかしてくれないの?」
「そんなことを言われても、自分では動けないよ」
「雨の日に傘が逃げたら大変だもんね」
「そんなことしないけど。それに、掃除が面倒になるほど散らかしたのは君だ」
「そんなのわかってるよぅ」
 部屋の中は確かに散らかっていたけれど、それは手がつけられないような散らかり方ではない。教科書やプリントがほとんどで、それも教科ごとの山になっている。ただ床に置かれているから散らかって見えるだけのように思えた。これなら、すぐに片付きそうなものだ。
「摩擦力なんだよね。動き出すまでが大変で、ほら。動摩擦は静止摩擦より摩擦係数が小さいっていうか」
「その例えじゃ、よくわからない」
「つまり、一度面倒だと思っちゃうと腰がなかなか上がらない訳さ」
 そう言いながらも、彼女は片づけを始めていた。教科書を科目別にそろえて、机の上の本棚へテキパキと収めていく。プリントも科目ごとに揃えてファイルに閉じ、それを教科書の横へ差し込んでいく。あっという間の作業だった。
「すぐ終わるじゃないか」
「だから、動摩擦係数は小さいんだってば」
 言いながら、制服を脱いでゆったりした桃色の部屋着に着替えると、彼女はすぐに課題を始めた。始めはそれが普通なのだと思っていたけれど、最近はどうやら他にもいろいろなスタイルがあることがわかってきた。多くの人は遊んだり本を読んだりと、この時間を自由に使う。それで、夕食後に課題を済ませる。あとは、課題は夕食後にやると言いつつ夕食後もだらだら過ごして、結局消灯後にベッドの中で、或いは翌朝早くから起きて終わらせるようなスタイルがメジャーだろうか。
 ミユキと同室の女の子がリョウコというのだけれど、まさにこの一番最後のスタイルだ。いまは部活の合宿で留守にしている。賑やかな娘なので、いなくなるとなんだか部屋が広くなったように感じた。ミユキも彼女がいないとなんだか手持ち無沙汰に見える。
「そういえばさ、明日雨だってさ」
「……そう」
「どうする? 一緒に学校行こうか?」
 これは考え物だな、と思った。というのは以前学校に行ったときに他の男子生徒が自分の傘と間違えて私を持って帰ろうとしたことがあったからだ。私としては、必要としてくれる人ならば誰に使われてもいいと思っているからどうとも思わなかったのだけれど。
「前みたいになると探すのが大変だからねー」
 結局、夜になってその男子生徒の家まで彼女がやってきた。どうやって私を探し当てたのかはわからないが、とにかく今もこうして、私は彼女の部屋にいる。大切に思ってもらえることは嬉しいけれど、持ち主の手を煩わせるようなことは考え物だ。
「けど道具だから、必要なときには役に立たないと」
 私は傘で、アンティークや部屋の飾りとは違う。
 彼女はにっこり笑ってこう言った。
「そっか、わかった。それじゃあ明日は役立ってもらうとしよう。あー、でもその前に」
「その前に?」
「課題手伝ってくれないかなあ。ちょっとこれは、猫の手も借りたい気分なんだけど」
「残念だけれど、手は無いよ」


 翌日はミユキの言ったとおり雨だった。雲の上で誰かが泣いているような、優しくて少しだけ温かい雨。夕立なんかとはぜんぜん違う。
 寮の前で傘が開かれて、視界が反転する。逆さまのまま通学路を進んでいく。本当のことを言うと、ちょっとだけ苦手だ。気持ちが悪くなる。けれど他の傘は平気な顔をしているし、我慢できないことは決して無い。
「んー、君が折り畳み傘だと警備が楽だったんだけどな」
 彼女はいつも他の人よりも十分ほど早く寮を出発するため、通学路を歩く生徒はまだまばらだ。小声ならしゃべっても、気にする人はいないだろうと判断する。
「折り畳み?」
「うん。知らない? ほら、ああいうやつ」
 彼女の指差すほうを見ると、なんだか扁平で骨ばった傘が見えた。ちょっとした風でふらふらしていて、骨なんかいまにも折れそうだ。傘の直径も小さく、今にも荷物が濡れてしまいそうだ。
「あれは使い物にならないよ」
「そうかな? 普段から鞄に入れておけば、急に雨が降ってもすぐに取り出せて便利だし、それに……」
「それに?」
「いつも手元において置けるでしょ。盗まれたりしないから安心だよ」
 なるほど鞄の中に入れておけるのは便利だけれど、最後のやつはどうだろう。傘が盗まれて悲しい人は、よっぽど少ないと思うな。万人に当てはまるメリットではないと思う。
 土間で水を払い、校舎の中へ入ると彼女は廊下を渡って隣の校舎へ向かう。
「教室に行かないの?」
 前に来たときと変わっていなければ、彼女の教室は最初に入った校舎の二階のはずだ。
「そう。前は教室だったからああいう事件が起きたけど、部室だったら大丈夫でしょ」
 そう言いながら、彼女はまた次の校舎へ移り、かび臭い階段を上っていった。踊り場をふたつ通過して上りきった三階の、手前から二つ目の小部屋が彼女の部室だ。
「ほんとは顧問の先生の許可が要るんだけどね」
「部室を使うのに?」
「授業後以外の時間に部室に出入りする時に」
 彼女が制服の胸ポケットからピンクのタグがつけられた鍵を取り出し、それで扉の鍵を開けた。
「部長権限で許可!」
「職権乱用だ」
「役得ですよー」  などと言いつつ、部室に入る。普通の教室を中央で二つに割ったような長細い部屋の中央に、会議机を四つ組み合わせて作った大きな机があり、その上に綺麗なディスプレイが並んでいる。部屋の奥にあるアルミラックの最下段に乗っている二台のパソコンがサーバで、この部屋のすべてのデータがあの箱の中に入っている。前回来たとき、ミユキがそう説明してくれた。
 天井にはクーラが取り付けられていた。パソコンは熱に弱いからといって付けてもらったのだそうだ。そういう要求が通る実績があるのだろう。
「それじゃ、ここで待ってて」
 黒地に白で部長、と書かれた三角錐が置かれている席に私は立てかけられた。
「わかった。行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
 バタンと音がして、扉が閉まる。薄暗い部室の空気は、ジメジメと湿っていた。よくわからないけれど、精密機器には悪そうな空気だ。私はせいぜい、構造が錆びたら嫌だな、くらいだけれど。


 昼を過ぎて、何度目かのチャイムが部室内に響いた。廊下の人通りが増え、外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。
「ごめんごめん」
 と、廊下から覚えのある声が聞こえてきた。どうやら既に何人かの部員が部室の前で待っていたらしい。ガチャガチャと鍵を開ける音がしてから、扉が開き数名の生徒が雪崩れ込んでくる。それぞれ自分の席が決まっているのか、混乱もなく各々着席し、パソコンを起動する。
「エアコン、つけないの?」
 部長席に座っていたミユキに小声で話しかける。
「あ、そうだね。つけた方がよさそう」
 彼女が引き出しからリモコンを取り出し、エアコンを付ける。強力なタイプなのか、室内の空気はすぐに乾き暑さも和らいだ。
 それから三十分もしないうちにすべての座席が埋まり、さらに数名が入り口脇にある応接セットで持参のノートパソコンを広げている。部室内はあちこちから会話が聞こえて賑やかな雰囲気ではあったけれど、専門用語やスラングが多くなにを言っているのかはよくわからない。
「そういえば部長、学園祭ってうちの部からは何か出すんですか?」
 髪を短く刈っている男子生徒が、モニタから顔を上げて、ミユキの方を見ながら言った。
「まだ考えて似ないけど、場所はいつもどおり本館の情報教室。何かおもしろそうですぐにできるものを思いつけばそれをやってみてもいいけど、何もなければ例年通りね。だから、教室の後ろ半分で作品展示をやって、前半分をゲーム班の試遊台にする」
「はあ、わかりました」
 この一連の会話が理解できただけだった。
 時間がたつにつれて、部室内の会話は減っていった。情報交換が終わり、それぞれ自分の作業に集中し始めたのだろう。何十本の指が一斉にキーボードを叩く音が壁に反射している。なぜか映画に出てくるマシンガンを思い出した。
 さらに時計の長針が二周ほどすると、ちらほらと席を立つ人が現れ始めた。一人、また一人と部室を出て行き、あっという間に部室に残るのは二人だけになってしまった。ミユキと、もう一人はさっきの坊主頭だった。
「部長ちょっといいですか?」
「なあに?」
 話しながらも、二人ともキーを叩く音は止まらない。
「部長は、神はいると思いますか?」
 ミユキの指が止まる。
「そうね。いるとは思う」
「どうして?」
 その間も、男子生徒は指を止めなかった。
「まあ、生きていればどうしても受け入れられない現実とか、信じられない幸運があるでしょう」
「だから部長は神がいると?」
「……ああ、いるって言うのはそうじゃなくて要る、needの方。つまり必要だって言いたかった」
「必要?」
 坊主頭の指が止まった。時計の針だけが、規則正しく時を刻んでいる。ミユキは少しだけ考えるようなしぐさをしてから、話し始めた。
「心って言うのは、安全装置だと考えてるの。たとえば風邪を引いたり怪我をした時ってネガティブになるでしょ? これって、そういうときに無理をするとハードの方が、肉体が再起不能になるからだと思ってる」
「無理させないように、心が体を制限する」
「でも逆の例としてプラシーボ効果があるし、病は気からって言葉もある。つまり、体と心は切り離すことができない」
「それで?」
「心って言うのはとにかく、重要な基本システムなわけ。BIOSみたいなものよね。ところで藤崎君、マザーボードに触ったときに静電気がバシッと流れたらどうなる?」
「起動できなくなりますよね」
「運がよければ助かるかもしれないけど、まず無理よね。で、私たちの心も強いショックを受けたら深く傷ついてしまう。それこそ、それで立ち直れなくなる人もいる。そのときに、神はそのショックを肩代わりしてくれるわ。身代わり防壁みたいにね」
「なるほど」
 藤崎と呼ばれた生徒はキーボードから手を離し、マウスを持った。
「藤崎君は人工知能をやってるのよね?」
「まだまだ手探りですけど」
「それでそういうことを考えてたの?」
「今の人工知能って、SF映画に出てくるソレとは程遠いですよ。やっぱり、サールの中国語の部屋から抜け出せてない。理解には程遠いんです」
「サールの中国語……部屋の中の英国人は投げ込まれた漢字の紙切れを見て、同じものをマニュアルから探す。そしてマニュアルに書かれているとおりの返事を紙に写して、部屋の外へ投げる。マニュアルは完璧で、外の中国人は部屋の中に中国人がいるのだと思うが、英国人は自分がなにを書いているのかわからない、というやつね」
「それです。人間が教えた以上のこと、人間が期待した以上のことはできないんです」
「それで?」
「……神様に聞けば、理解して行動するやつができるかな、って思っただけですよ」
 藤崎少年はそういうと席から立ち上がった。いつの間にか、ファンの回転音がするのはミユキのパソコンだけになっていた。
「それじゃ、お先に失礼します」
 静かに扉を閉めて、藤崎が部室を出て行った。
「……なに語ってんだアイツって感じだろうなぁ。あー、恥ずかしいっ!」


 校舎の土間でスリッパから靴へ履き替えて、通学路を寮へ向かう。雨は朝からずっと降り続いていた。空は厚い雲に覆われて、太陽の存在はかろうじて感じられる程度だ。
「そういえば、神っていると思う?」
「神か。いないんじゃないかな」
 私はただ漠然とそう答えた。
「どうして」
「自分の決定や行動に、他者が介入しているなんて考えたくもない。自分の選択は自分の責任だし、望まない結果になったとしてもそんなところに逃げ道は要らない」
「クールだなあ」
「坊やなだけだよ」
 実際、私はまだ自分の力でどうにもならないような事態に直面したことが無い。ただ抵抗できないとわかっているから、流されてきただけなのだ。先日起きた傘の取り違えの時だって、バックにあるのはこの考えだ。彼女風に言うならば神を必要としたことがない、ということかもしれない。
「そういえばさ、傘と神って似てると思わない?」
 どこが――と言いそうな所でぐっと堪えて少しだけ考えてみる。部室での会話から考えると、「災難から守ってくれる」あたりだろうか。もちろん、私は雨雪から守るくらいのことしかできないのだが。
「いや、そうじゃなくてサ。『かさ』と『かみ』でしょ。一文字違い」