Trash Basket Notebook
--page21:雨女

 彼女がそこにいるのは、決まって雨の日だった。

 中三になってから、急にクラスの雰囲気が変わった。休み時間まで問題集をめくっているやつがいれば、課題が減ったのをいいことに夜まで遊ぶやつもいる。僕は、なんとなく親に言われるまま塾に通い、けれど時間を見つけてゲームもしつつ、だらだらと流れに身を任せて受験ムードに入っていた。
 小学生のころなんて遥か昔で、もう思い出すことも無かった。
 中間テストの結果がでた頃、僕らの地域も梅雨に入った。
 最後の講義が終わった後だから、夜の十時ごろだったと思う。その日は近くに住んでいる大宮が休んでいたので、僕は一人で家まで自転車で帰らなければならなかった。
 用水路沿いのその道は、住宅街を突っ切っていることもあって兎角暗かった。遠くに一軒だけある酒屋の前に置かれた自動販売機の周りだけが明るくて、そこでしか生きられないみたいに、毎晩虫が集まっている。
 僕は力いっぱいペダルを回した。講義の内容とか模試の順位とか、全部振り払えれば良いのにと思いながら。
 ぽつり、と頬に雨粒が当たり、懐かしい空気が鼻腔をくすぐる。
 僕はそこで自転車を降りた。ちょうど自販機の前。
 子供の頃、走り回って汗だくになった僕らをいつも苛立たせていた、あの自販機の前で。
 僕は、彼女と再会した。

     ◇

 彼女に初めて会ったのは、小学校三年生の夏休みだった。
 その日、僕はふとセミを捕まえたくなって少し離れた雑木林へ向かった。少し前に大宮と遊んでいて見つけた、秘密の場所だ。
 用水路沿いに20分くらい歩くと、その場所に着く。そこで僕は適当な木に登っては、セミを捕まえて遊んでいた。もちろん幹の下の方にもセミは止まっていたが、それを捕まえるのでは簡単すぎて遊びにならなかったから、僕らは普段から、あえて上の獲物を狙っていた。
 そうして夢中で木登りをしつつセミを捕まえていると、急に天気が崩れてきた。あっというまに雑木林の中は暗くなり、雷鳴が轟いて雨が降り出す。
 大粒の雨は木の葉の間を突き通し、地面を殴り派手に散る。
 僕は雨粒の痛みを感じながら急いで木から降り、どこか雨宿りのできる場所を探した。用水路を挟んで反対側に、酒屋さんがビニールの庇を出しているのを見つけて、僕は近くの橋を渡ってそこへ向かった。
 やっとの思いで庇の下、自動販売機の隣へ滑り込んだときには、もう全身ずぶ濡れになっていた。肌に吸い付くTシャツが心底気持ち悪い。
「あら、ずいぶん降られたね」
 僕は急に話し掛けられたので、飛び上がりそうなほどびっくりした。もしかしたら、本当に飛び上がっていたかもしれない。
 声のした方を見ると、お姉さんが一人立っていた。見かけは、高校生に見えた。制服もこの近くの中学のものとは違うから、間違いないだろう。
「まあ、夕立は突然来るけどすぐに止むからさ。こうやって雨宿りしていればすぐ過ぎちゃうよ」
 いまだかつて、知らない年上の人に話し掛けられるなんて状況に遭遇したことの無い僕は、すっかり相手のペースに飲まれて何も言えなった。普段は口数が多くて、お母さんを困らせるくらい喋るのだけれど。怖気づいていたのかもしれない。
 僕はずっと、用水路を流れる水を睨むように眺めていた。
 彼女の言ったとおり雨はそれからすぐに止んだけれど、それと同時に彼女は姿を消していた。

 というのが、彼女と初めて会ったときの話だ。
 彼女にはそれからも何度か会ったけれど、夏休みが終わると遠くまで遊びに行くことは少なくなって、彼女とも会わなくなった。
 そしていつしか、僕はそのときの事をすっかり忘れてしまった。


     ◇


「久しぶりじゃない? 覚えててくれたんだ」
「白状すると、思い出した。さっきね」
 彼女は、数年前と変わらない姿でそこに立っていた。
「驚かないんだ」
「君がここにいることに?」
 僕が聞き返すと、彼女はゆっくりと首を振った。
「私が変わっていないことに」
 彼女は、確かに変わっていなかった。身長も髪の毛の長さも、まつ毛の本数まで同じかもしれない。そう思ってしまうほど、変化が無い。
「……言われなかったら気がつかなかった」
「じゃあ、このまま黙っていたらよかったかもね」
 六月の雨は、優しく降っている。
 落ちていく無数を雨粒を見ていると、突然ガラガラと引き戸の開く音がした。
「お兄さん、雨宿りかい? 外だと濡れるでしょ、ささ、中に入りな」
 酒屋のおばさんが、そう勧めてくれた。
「いや、僕はいいです」
 咄嗟に、そう断る。気後れしたことだけがその理由ではない。
「そうかい。まあ、いつでも入ってきていいからね」
「ありがとうございます」
 おばさんは少し眉をひそめながらも、店の奥へ戻っていった。
 僕はまた、正面を向きなおす。
「私、あんな風に声掛けられた事無いなー。やっぱ違うのか」
 少し拗ねた様な声でそういう彼女は、僕と同じように用水路の方をぼんやりと眺めていた。
「同じ人なんていないよ」
「それはその通り。では私は人間でしょうか?」
「さあ? 考えたことも無いから、さっぱりだ」
 雨は静かに降っている。
「そういえば、生物の定義って」
 口にすると同時に、考え無しに発言したことを後悔した。完全に話題の選択ミスだ。
「どんなの?」
 興味深そうな声だったけれど、顔を見ていないからそれが真意かどうかは判断できない。判断できないまま、僕は話を続けてみた。
「いくつか習ったけど、とりあえず子孫を残す能力があること、だったな」
 レオポンの話を思い出す。
「子孫か」
 彼女はぽつりと呟くとすぐに言葉を続けた。
「試してみようか」
「え?」
 視界が揺らいだ。
 ぐっと強い力で横から押されバランスを崩した僕は、自動販売機の側面にもたれる形になる。そのままずるずると下がっていく体を、両手で自販機を挟むことでなんとか保持していた。ギリギリでセーフ。
 それは同時に、追い詰められた格好でもある。
 彼女は僕に覆いかぶさるような姿勢で、Tシャツの中へ指を這わせてきた。冷たい感覚が胸の方へ迫ってくる。耳元では徐々に激しくなっていく彼女の呼吸が聞こえた。
 悪ふざけなのだろうか。
 しばらくして、彼女は上半身を僕に押し付けたまま、手を引いていった。今度はベルトのバックルがガチャガチャと音を立て始める。
 やめませんか、とは何度か言いそうになったが、そのたびに堪えた。彼女の問いかけに、僕はまだ答えていない。
「どうするの? 最後までやっちゃおうか」
 悪戯っぽい声で彼女が囁く。このまま回答を先送りにしておくと本当にフィニッシュしてしまいそうだ。
 まあそれも悪くないかと思った矢先、彼女が引いた。何事かと、僕も姿勢を直す。
 直ぐにガラガラと酒屋の引き戸が開いて、出てきたのはおばさんだった。
「お茶おいとくでね」
 おばさんはそう言うと、奥から持ってきたらしい椅子の上にお盆を置いて戻っていった。
 そのお盆には饅頭と湯気を立てる煎茶がそれぞれ二つ、載っている。


     ◇


 僕が湯飲みのお茶を飲み終わると、彼女がポロリと言った。
「別に、最初からこうだったわけじゃないんだよね」
 僕は何も言わずに降り続ける雨を眺めていた。
「最初は晴れてる日よりは雨の日のほうが機嫌がいいくらいで、それが晴れの日は体調が悪くなって。中学校入ったくらいで、雨の日でなければ歩けないようになってさ」
「まだ覚えてるんだ」
「でも、思い出せるのはほとんど雨に日だけかな。それこそ幼稚園くらいなら晴れの日のことも覚えているけどね」
「それじゃ、自分が小さかったときのことはよく覚えているということ?」
「比較的ね」
「そういう幼馴染がいるとすごく面倒だ」
「かもね」
 彼女はそういうと、僅かに笑った。そう見えただけかもしれないけれど。
 目の前の道を自動車が通っていく。ヘッドライトの光が雨に当たって、空中を飛んでいく様子がわかった。
「そういえばいつも一緒だった男の子はどうしたの?」
 大宮のことだな、とすぐに思い当たる。
「中学受験に失敗して、結局同じ学校に通ってる。今通っている塾も同じだけど、今日は休みだったからね」
 もしかしたら天気を見て、来るのをやめたのかも、と付け足す。
「雨だと自転車使えなくなるし、こうやって足止め喰らうこともあるしね」
「……でも、それも悪くない」



雨女エロいですね。大宮にはもう少し出番をあげたかった。

「雨女」という題材をくれたT氏には最大の感謝を。いや、これでいいのかわからないのですけれども。

(c) 2009 たな.
http://sidewind.husuma.com/