Trash Basket Notebook
--page20:梯子

 目の前にコンクリートの柱が一本聳えていた。
 見上げればそれは雲の上まで届いている。まるで全天を支えているかのような存在であったが、それにしては細すぎる。せいぜい、太めの電柱ほどの直径しかないのだ。
 私がいる空間にはそのコンクリート柱以外のものは何も無いようであった。白い壁に囲まれているらしいが、壁と床の境目は良くわからなかった。写真屋のスタジオを思い浮かべてもらえれば、そんな感じだ。出口は見当たらず、ただ空に向かって口を開けている。
 その柱について少し調べてみると、ちょうど反対側に梯子がついていた。白く塗られた梯子だ。梯子は柱にしっかりと固定されている。初めから組み込まれていたような作りだ。
 私は少しの間考えた。つまり、この梯子を上ってみるのか、それとも上らずにここで様子を見ていた方が良いのか、ということについて考えていた。ふと頭に浮かんだのは、やらずに後悔するよりはやって後悔した方がいい、という言葉だった。さて、誰から聞いたのだったか……。
 とにかく、私はその梯子に手をかけた。

 始めはぐんぐん上っていき、私はすぐに部屋の壁の高さを越えた。すると驚いたことに――あたり一面に、同じような柱が無数に並んでいる。地面は茶色だ。どの柱も、その根元を高さ数メートルから十メートルほどの白い壁に囲まれている。太陽は見えないが、薄い雲越しにぼやけた光が地表に届いている。
 私はそのとき、もう上ることを止めようかと考えた。この先どこまでも、終わりが無い梯子を上って、何があるだろうか。上っても、仕方が無いではないか。
 しかしそんな考えに反して、私の左手は次の段に手をかけていた。もう少しだけ上ったら、また違う景色が見えるような気がしたのだ。それは、どんな景色だろうか。考えると、すこしだけワクワクしてきた。
 それからしばらくしないうちに、私は雲の中に入ってしまった。この高さだと霧といった方がいいかもしれないが、どちらにせよ同じものだ。
 雲を抜けると、今度は周りの柱がすっかり無くなっていた。近くにあるのは二本だけで、遠くにポツ、ポツと数本の集まりが見えるが、数え切れる量である。その背景には、青い空が見えて、なぜだかひどく懐かしい気分にさせられた。
 上にはまた雲があり、柱はまた、その上へ続いている。
 私の近くにある二本の柱。その片方にちらりと目をやると、その梯子を上る人影が見えた。小さくて、よくは見えないが、上っている。ではもう片方はどうかというと、やはり誰かが上っているのが見て取れる。どうやら、一本の柱に一人の人間がいるらしい。
 私はその二人に同調するようにして、梯子を上っていった。

 次の雲を抜けると、まわりの柱がまた増えていた。というよりは、新しい柱が見えるようになった、という方が正しい気がする。だとすると、最初はどうしてあんなにたくさんの柱が見えていたのだろうか。不思議だ。
 私は梯子を上り続けるうちに、あることに気がついた。私が重心をずらすと、その方向へ動くらしい、ということだ。はじめはただの勘違いかもしれないと思ったが、一方に体重をかけ続けたところ、近くにあった二本の片方が先ほどより近く感じるようになったことから、本当に動いている、もしくは撓っているらしい。
 それから私は何度か雲に入り、また抜けた。繰り返すたびに柱は増えていった。

 あるとき、空から雨が降ってきた。雷鳴がとどろき、風が吹いて、まるで私を叩き落そうとしているかのようであった。
 周りの柱――そのときには、始めの雲を抜けたときの十数倍の本数になっていたが、それらにも雨は同じように降っていた。だが奇妙なことに、私たちのいる一帯を除いて、雨は降っていない。
 その雨があんまりにも長く続いたからか、私はその時始めて、上ることを止めた。
 足下を見ると、私が抜けてきたはずの雲はすっかり流されて、はじめの小部屋が小さく見えた。すると今自分のいる場所がどこまでも不安定に思えて、いっそのこと飛び降りてしまいたくなる。
 けれどもその時飛ばなかったのは、やっぱり雨雲の上に何があるのかが気になったからだし、この雨雲を抜ければまた晴れているだろうなんていう、甘い期待が少しだけあったりもしたからだろう。

 雨雲を抜けた次の層では、そばにあった柱が途中で途切れていた。
 その柱を登っていた人間は柱の頂上に座ると、私たちにむかって手を振ったので、私も手を振り返した。次に会うことがあったとしても、きっとわからないだろう。顔を覚えるには、少し距離が離れすぎていた。
 でも他人を識別する要素って、顔だけじゃないはずだ。きっとほかに、何かある。ならば、もしかしたら、わかるかもしれない。また会えて、お互いそのことに気がつければ、素敵だな。
 そんな起こりそうに無い出来事を想像して、私の心は少しだけ幸せになる。霊長類というのも、たいそうな名前の割にたいしたことが無いようだ。いや、想像しただけで幸福な気分になるのだから、よほどたいしたものか。
 アイツは、柱を降りて行っただろうか。そういえば降りるときは、一人きりだ。
 気分が、急にさめていく。
 私の上っている柱にも終わりが有るのだろうが、その時私はどうするのだろうか。上に腰掛けて、上がっていく仲間に手を振って、それで、どうするのだろう?

 私はまた、何度目かの雲の中へ入っていく。




 なんてね。



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