Trash Basket Notebook
--page10:冬の雪

それは冷たく透き通った12月の終わり。周囲を山に囲まれた北欧の小さな町のこと。
その男が町の北にある駅の3番ホームに降り立ったのは日が暮れて間もなくのことだった。目指す山小屋は、西側の山の斜面に建っていた。
降る雪は、しだいにその量を増す。視界は制限され、山小屋を探すのに使う労力は倍増する。急がなければ。
     *
今まで14年間、女手一つで私を育ててくれた母。その母が見知らぬ男を連れて帰ってきたのは数週間前だった。
私はすぐに、母の恋人なのだとわかった。
もし母が、この人と結婚すると言ったら、迷わず賛成しようと思った。男の人は実直で優しそうな人だったし、なにより母が選んだ人だから。
しかしそれが大きな間違いであることに気が付くのに、たいした時間は掛からなかった。
それは、その男の人が二回目に訪問してきた時のこと。私は食卓の近くに置かれた白いソファに座り、テレビを見ていた。適度に暖房が効いた部屋の中は心地よかった。
インターホンがなり、食卓で男と談笑していた母が席を立ち玄関へ向かった。必然的に、部屋の中には男と私だけになる。
――そのとき私は初めて、その男の人に蹴られた。
男の人は母が居なくなるとすぐに席を立ち、ソファの前まで歩いてくると、私の肩を掴んでソファから強引に引きずり降ろし、床に転がる私のお腹を強く蹴った。
最初は、なにが起きたのか分からなかった。
     *
その男の人は三日に一度のペースでやってきて、母の目を盗んでは私を蹴った。最近では殴ることもある。
母に相談しようかとも思ったが、止めた。そんなことをしても、ただアイツに蹴られる回数が増えるだけだった。
なにか方法は無いかと考えても、まだ弱い私には逃げることしかできないらしかった。
着替えなどの入った小さなカバンを持って家を出てから、しばらくは町の中を歩く。まだ日は沈んでいなかった。
当分の間使うことにしたのは、西の山の中腹に建つ山小屋だった。その山小屋は登山道から少し離れた場所にあり、今年の夏に友達と偶然みつけたのだった。綺麗な所ではないが、外で寝たら凍死してしまうから、仕方がない。
町の外れに着いたときには、すでに雪がちらついていた。急がないと、道が分からなくなる。
西の山は、町を囲む山の中で最も優しい山だった。
けれど雪がが降り始めれば、どんな山でも危険度は急激に上昇する。吹雪に遭えば、方向感覚が麻痺し、山小屋のすぐ近くで遭難することも珍しくなかった。
肩から下げたカバンの中から携帯ラジオを取り出してスイッチを入れると、ちょうど天気予報が流れてきた。今夜は吹雪くらしい。急ぐしかない。もう、戻れないのだから。
ラジオをカバンの中に戻し、雪の積もった登山道に踏み込む。
     *
山小屋に着いた時には、もう完全に日が暮れていた。
木の扉をあけ、中に入る。途中で迷ってしまったことも手伝ってもう全身クタクタだった。
ただ、本格的に吹雪き始める前に着けたのは幸いだった。
冷たい風が窓ガラスにぶつかり、音を立てていた。
その音が小さな小屋の中に響いて、寂しさを倍増させる。
なんで私はこんな所にいるのだろう。小屋の中に置かれていた棚の中には、色あせた緑色の毛布が数枚と、ビスケットの箱がいくつか入っていた。
雪の中を延々と歩いたこともあり、とても眠かった。棚から毛布を二枚取り出し、それにくるまるとすぐに眠ってしまった。
     *
コツコツ、と扉が叩かれる音で目が覚めた。
きっとあの男が追いかけてきたのだ。母が捜索願いを出そうとし、それによって虐待の事実が警察に露呈することを恐れ、自分から探しに出てきたのだろう。そう考えると当然の事に思える。でもそう簡単に見つかるとは思えない。もしかすると最初から後をつかれていたのかもしれない。
頭から毛布を被り、必死になって息を殺す。ゆっくりと扉が開き、外の雪と風が舞い込んできた。
扉を開けた誰かが小屋の中に入り、扉を閉めた。
温度が下がり、自分の体温で小屋の中が暖かくなっていた事に初めて気が付く。
毛布と床の隙間から入ってきた人が見えた。小柄であの男では無いことだけは確かだった。
その人は私の足下の棚から毛布を一枚引っ張り出すと、私から一番離れた小屋の角に倒れるように座るとそのまま眠ったらしく、動かなくなった。
そして私も、まだ残る疲れと少しの安心で睡魔の手に堕ちていた。
     *
次に目を覚ました時には、既に陽が昇り腕時計を見ると時刻は9時50分だった。
昨日の夜にやってきた人は相変わらず部屋の隅で眠っていた。不思議な雰囲気のアジア系の青年だった。奇妙なのはその服装で、毛布の隙間から覗くのは、少し汚れた白いTシャツと黒いジーンズだけだ。
こんな軽装で、よく生きていたものだと思いながら見ていると、突然彼の黒い瞳が開けた。
「起こして、しまいましたか?」
こんな軽装で吹雪の中を歩いて、良く生きていたものだ、と思いながら。
「いや、関係ない。」
青年はそう言うと、姿勢を直した。
「無理しないで下さい。」
「無理なんかしてないさ、それより君はこんな所で何をしているんだ?」
少し戸惑ったが、なんとなくこの人は味方だと思えて、気がついたときには今までの事を全て話していた。
「……それで、この小屋に逃げてきたのか。」
「はい。」
なんだかとても情けなかった。逃げている自分が。
「僕は君に、いいアドバイスは出来ないだろうし、こんな時にどんな言葉を掛ければ元気づけられるかもわからない。ただ――」
「ただ?」
「願いを、ひとつだけ叶えよう。なんでもいい、言ってみて。」
「なんでも、ですか?」
「まぁ、天国に行きたいとか、そういうのはイヤだけど。」
いったいどこが天国なのかも解らないしね、と苦笑いしながら青年は答えた。
――友達になって欲しい、というのはダメだろうか。
友達は、ちゃんといる。ただ、彼を新しい友人に加えたいと思ったのだ。吹雪の中を、Tシャツ一枚で歩く彼を。
「じゃぁ……」
友達になって下さい、と言おうとして、止めた。
やっぱり自然に友達になるべきであって、友達になって、と頼むのは自然ではない。だから――
「もうしばらく、一緒にいてくれませんか?」
彼は、すぐに返事をしてくれた。そのことが少し嬉しかった。
    *
町まで降りてから、まず駅前のデパートでコートを買って、彼に着せた。寒そうだったし、あんな格好では嫌でも目立ってしまう。幸い、脱出の為に用意したお金があった。
その後はウィンドウショッピングをしながら町を回った。
あんな雪の中を歩いた次の日、こんなにも遊べるのには驚いたが。一晩寝ると、体力って結構回復するのかもしれない。
気が付くと日は暮れ、私たちは、私の家へ向かっていた。
帰ってからの事は考えていないけど、もう逃げるのは止めた。
まず母に謝ろう。
    *
「今日は一日、一緒にいてくれてありがとうね。ずいぶん、落ち着けた。」
私の住んでいた、アパートの前。それはきっと、私が異性の友達に向けた、初めての笑顔だっただろう。
彼は小さく頷くと、元きた道を駅に向かって歩き始めた。
「……ねぇ!」
そう叫ぶと彼は、なに、と振り向いた。
「名前を、聞いてなかったから。」
「……シンヤ。フカツ、シンヤ。」
そして雪がまた、チラチラと。
    *
「……で、お前は女の子と一日遊んできたワケか。」
相方は駅前のデパートの入り口のベンチに座っていた。
「うるさい。」
隣に腰掛ける。ジーンズ越しに、氷のように冷たいベンチに体温を吸われるだろう、と覚悟して座ったのに、それがない。
「そのコート、どうしたんだ?」
そう、相方に言われるまで気が付かなかった。
「ああ……そうだった。」
紺色の、フェルト地のコート。
「もう……2年前になるな。」
「そう……だな。」
相方と2年前の話をするのは初めてのことだ。彼女と同じように、俺もまた逃げていたように思う。

……えー、お久しぶりです。tanakaです。
もしかしてこれはjunk史上最長になっているんじゃないでしょうか。
けれど製作時間もは(多分)4時間くらいとあっさり目。
書いた当時としては珍しくルーズリーフに書いたモノです。その頃は最初からデジタルでしたから。
で、とにかく時間が掛かったのはルーズリーフからwordファイルに変える時。
ここだけで数時間かかってますから。
そして慎也君初登場。彼は並行/〜にも登場する予定の人です。はい。
まぁ、そんな感じで季節外れですが。
ちなみに、元はクリスマスの話として書かれたそうですよ。途中で狂ったらしい。よくあることだけど。
(c) 2006 tanaka.